VOICE(掲示板)
高齢出産VOICE

高齢出産の悩みや心配事、そして生んでよかったこと。

【子育て】そんなにダウン症が嫌?
ももっち -- 2010年05月 5日 23:59:02

私には中学3年生の娘がいます。
27歳で出産し、母子共に元気で喜んでいました。
ところが生後4ヶ月、精神、運動遅滞と診断されました。
染色体検査もしましたが異常はありません。

それからというもの療育機関に通い、新たな検査で難病がみつかり。生死に問題はありませんが、何が原因だったのかなと受け入れるのに10年かかりました。

ここの投稿を読むと羊水検査などそんな話題がわんさかですね。
そんなにダウン症はいやですか。

いくら羊水検査で白だったとしても後からわかる障害だってあるんですよ。


コミットするということ
しゃぴろ -- 2010年05月14日 19:49:59

  ももっちさん、

横レス続きになってしまってすみません。
もう少し、スレッドお借りします…。


五月雨さん、

すてきなご返信をありがとうございました。

障がいのある子を産み育てることについては、考えがないわけではないのですが、私は子どももいないのでこうした場で何かを述べるのは難しいと感じています。
ですので、関わり方、の部分について、ご返信させてくださいね。

五月雨さんのおっしゃっていることは、自分たちの社会をどうしたいのか、とい
うことの根底であるような気がします。

いきなり話が飛ぶのですが、東南アジアの国で、国発注のコンペがあった、と。
日本の企業は、その国の法律・慣習にのっとった形で企画を出した。
欧米の企業は、その国の法律・慣習にとらわれない企画を出した上で、その国の法律・慣習を変えるべきだ、と主張した。

私はその逸話を聞いたときに、「欧米の企業はなんて横暴なんだ。内政干渉まがいで、自分たちだけが正義と思ってる!」と憤慨しまして、当然、その国の人も同様に感じたのだろう、と思いました。

ところが話の結末は予想と違っていまして、「日本は上滑りの利益だけ求めてきたが、欧米はもっと内実までコミットしてくれた」というものでした。
この話はあまりいい例ではなくて、欧米だってきれい事だけではないし、標準化戦略とかいろいろあるわけですが、さらに、そもそもキリスト教と帝国主義の歴史的経緯の功罪とも切り離せないわけですが、それらはともかくもともかくとして、この「コミットする」という姿勢について、私たち日本人は日頃の習慣についてもっと考え直してもよいのではないか、と思うことがあります。

私は、目を合わせないこと=批判の目を向けないこと、が社会的トレランスのあらわれなんじゃないか、と書きましたが、その感覚を肯定する気持ちは今も持っています。
東京という都市の匿名性の心地よさと安心感は、他の国の大都会にはないものと思っていて、それはこうした日本社会のあり方と無縁ではないような気がしています。

ただ、それは、そうした匿名性の空間になりうる同質性を前提としているんでしょうね、きっと。だからそうした同質性を破りかねない存在があらわれたとき、「匿名性」はいっきに「無関心」へと変質してしまう。
五月雨さんがおっしゃった通り、無関心=なかったことにする、という排除の構造が唐突にできあがってしまう。

例えば、自分の家の中で奇声をあげる人がいたら「やめてほしい」と言うのだけれど、駅や街中で奇声をあげる人がいても、何も言わない。

それはどういうことなんだろう。自分の家については、「自分の」関わるテリトリーだけれど、駅や街中は、自分とは関係のない空間だから、何も言わない。ということなのかもしれないですね。そうだとすると、社会という空間に対して、自分が関わっている、という意識が薄いということだからそれはとても寂しいことですね。

五月雨さんが山手線で目撃した外国の紳士は、そうではないんですね。
電車の車内の人々は、お互い見知らぬ他人同士だけれど、その奇声をあげていた男性も含めて、皆、この社会を構成しているメンバーだ。という考えや意志が感じられます。
だから、社会を構成する一員である自分(外国の紳士)が、同じく一員である相手(奇声をあげる男性)に、座るように言えるのでしょうね。
五月雨さんの言う対等、は、そういう意味の対等、と理解しました。


一つには、障がい者の実際について、地縁血縁でそばにいる場合は別として、知識として私たちいわゆる健常者が知らなさすぎる、ということがあります。

言葉を知らない国の人は、なんとなく互いに疎外感を感じますが、日本語の流ちょうな外国人は見かけが日本人とかけ離れていても違和感ないですよね。それと同じだと思うのです。コミュニケーションの入り口は、ごくテクニカルな話だと思うのです。

例えば車内で奇声をあげて激しく動く人に対して、どういうコミュニケーションが可能で、どういうコミュニケーションがのぞましいのか。行動について社会的な規範から離れがちなお子さんをもつお母さんは、駅や街中でどういうことを望んでいるのか。もちろん、個性万別でしょうから、何かを一概に言うことは難しいのでしょうが、そうはいってもコミュニケーションにはロールモデルが必要だと思うのです。

そうした情報が機会あるごとにアピールされるといいですね。つまり、役所や団体がマニュアル作るべきだ、ということではなく(でもそういうこともあっていいと思います)、五月雨さんのような姿勢が個人個人の中で広がりながら、そうして私たちが実地の情報を積み重ねながら、そうした情報が社会の中でお互いに共有されていくことが、大切な気がします。


それと、長くなっちゃいましたがもう一つ、私が最近強く感じているのは、私たちは「人に迷惑をかけない」ということにこだわりすぎているんじゃないか、ということです。

駅の階段で、ご高齢の女性が重い荷物を運んでいたり、ママが赤ちゃん片手にベビーカーを運んでいるのを見かけると「お手伝いしましょうか」と声をかけるのですが、「いえいえ結構です」とお断りになる方が多いのですよね。盗まれると思ってるのかもしれませんが…。

一時期欧州に数年いたのですが、彼の地では、高齢女性は荷物の上げ下げは皆、若い男の子(その場にいあわせた知らない子)に命じてました(笑 で、ズリパンの思春期まっさかりみたいな男の子達が、皆すなおに、荷物おろしてあげたりするんですよね。日本の高齢者はもっと控えめな方が多いですけれども、でも日本だって、私が中学生くらいの頃は、東京や横浜でもバスや電車の中で座っている人は前に立った人の荷物もってあげたりしてたのですけどね。

困っているときに、ちょっと周囲の人にお願いできる、気軽にその求めに応じる、そういう社会が望ましい、と思います。
自己責任という言葉が弱肉強食と同義で使われるのはおかしいと感じます。
力や運や能力をもっている人が、その力を自分だけのために使う社会はつまらない、と皆が感じられる社会にしていきたいと思います。

同様に、同じ社会を構成している人間同志として、互いにコミットしあえる、そうした社会にしていきたいですね。

ももっちさん、しゃびろさんへ
五月雨 -- 2010年05月11日 17:42:20

  ■ももっちさん

わかったような事言って、すみません。
もうちょっと、しゃべらせて頂きます。

そして、横レス失礼します!

■しゃびろさんへ

そうですね・・・単刀直入な回答にならないのですが、聞いて頂いてもよろしいでしょうか。

個性によっては、コミュニケーションが苦手など様々ありますから、どう接したらいいか?という答えは一概に言えないのですが。

私も、判らないことだらけです。
判らないので知りたいのかな。
この人は、どうなんだろう?ってちょっと近づきます。

言葉が足りませんでしたが、「どう接してよいかわからない」=「関わらない」
=「障碍とは無縁で生きたい」と思える、と言いたかったのかな。。

ご質問より話が広がりますが、公に向けてもう1度述べさせてください。

私は、一切を覚悟して10ヶ月間、親になる準備をしました。
親になるって、そういう事だと思っていましたから。
そういう事ってつまり、全ての運命を受け入れることだと思っていたので。

人は、いつ自分が
我が子が
家族が
「障碍」を持つことになるか判らないです。

世の中には、ありとあらゆる障碍がありますね。
それに、障碍とタイトルがつかない生きづらさを抱える子もいます。優劣だってあります。

妊娠時に、障碍への不安を抱いたり、健康を願ったりするのは自然の摂理だと申し上げましたが、度を越えると完璧に整えた出産をしたいと願うあまりに、まるで世の中の障碍や劣者を、一切排除したいかのような行為と受け止めてしまいます。ひょっとして、ももっちさんもそんなことを感じられたのではないかな、と思いました。

しゃびろさん、
偉そうなこと言ってますが、私の関わり方なんて本当にたわいのない事です。
例えば、、、障碍、といっても様々ですが、
「ある障碍」を持った人が、街に繰り出していたら、まずは「ああ、よく出て来たね、来てくれたね」と思います。家を出て、ここまで出かけてくるまでに、どんな出来事があったのだろう、おつかれさんとその道のりを想像してしまいます。

だから、つい「天気いいね」とか「こんにちは」とか声をかけてしまいます。
ただそれだけです。会話が続くことはほとんどありません。

一番、声がかけやすく、いわゆる図々しく話しかけてしまうのは、
付き添いの方がいらっしゃる時です。こういう時、奇声をあげていたら「嬉しいのね」と付き添いの方にお声をかけたり、本人に「Hi」って手をあげるかな。公共の場所だと、付き添いの方はきっとこんな場所で大声をあげて!と、肩身の狭い思いをしているだろうと、私が勝手に思い込んでるので、その場を代表する思いで、「大丈夫だよ」という気持ちを伝えたくて、何でもいいから声かけてしまいますね。それに、付き添いの方がいると会話が続きます。どこから来たの〜?何歳〜?何が好きなの〜?何が苦手〜?近所の方なら、どこの学校〜?などなど。

未成年の方だと、付き添いの方がいらっしゃらなくても声をかけやすいです。ただ、ご指摘の「大きな声を出してるお子さん」が、まわりの迷惑になるような過度な行動をとっていたら、制します。。相手がコドモなら余計に、「世の中の大人みんなで育てる」って使命を感じます。

許容できるか出来ないかは、私個人の判断です。
社会的通念を押し付けるのではなく、人は対等であれ、と思いますので、私が「不快」と思えば、私の気持ちを率直に伝えるだけのことです。アサーティブネスな考えです。

他者の助けを必要としているかどうかは、聞いてみなければ判りません。街中の人が「何か困ってる?」なんて声をかけまくってたら、声をかけられる方も前に進めずたまったもんじゃないでしょうけれど、立ち止まってる人には、「何かあった?」って声かけますね。

人との出会いって、笑顔や挨拶から始まりますよね。
それだけでいいんじゃないですかね。
それが第一歩だと思います。

ちなみに、成人男性に声をかける時は躊躇しますし慎重になります。ひとりごとをつぶやいてる方には、その世界の邪魔をしないよう、そっとしておきます。大きなおじさんになると、パニックになったらどうしよう、と思います。出来ないこと、したくない事は無理矢理しません。

それ以外にも、声をかけられなかった事はたくさんあります。
それでも、いつも関わりたいと思い続けています。

しゃびろさんの小さい頃のエピソード、お気持ちが伝わってきました。
しゃびろさんのお母様のご配慮も理解できます。

少し話しが逸れますが、同じ経験をしても、人それぞれ感じ方・受け止め方が違うと感じた経験ありませんか。
私は、流産がそれでした。
ママ友は、だ〜れもその話題に触れてきませんでした。その不自然さが、まるで私って可愛そうな人間?と思えて悲しかったです。
私自身は、もう1度妊娠できた喜びと、感謝の気持ちでいっぱい。幸せな思い出をありがとう、と思っていたのに。

お母様の、よく熟慮されて出された思いやりが、乳母車のママには遠く距離を置かれたような気持ちになられたのかな。どちらも悪くないのに、何かが淋しいですよね。

最後に、私も通勤途中に経験したエピソードを聞いてください。

20代の頃、満員の通勤電車の山手線の中で奇声をあげて、激しく立ったり座ったりしている成人男性がいらっしゃいました。私は、傍観しているだけだったのですが、もちろんまわりの方も知らん顔。目を合わそうともしません。すると、目の前に立ってらした外国の紳士が、その男性の肩に片手を置き、にっこり微笑みながら無言で座るように促しました。男性は、大人しく座り、最寄の駅で下車してゆきました。

障碍について、日本人は「無知」なのか「無智」なのか果たして「無恥」なのか、その日の光景は私にとって、衝撃的に心に刻まれました。

ダウン症に限らず
とくめい -- 2010年05月10日 12:24:52

  色々な掲示板でよく話題になる『羊水検査』。
その検査を命の選択として反論し、その結果いかん(陽性⇒堕胎)では、まるで人でなしのように反感を買う事もあります。
母になる資格がないとまで叱責する人まで現れたり・・・

そして必ず誰かが書き込まれる事で、
『羊水検査では分からない障碍だってあるのに。』と。
そんな事は、羊水検査を知っている人なら大抵知っている事実です。
受ける前には、その点も医師からの説明もありますしね。


他の障碍なら良くて(受け入れるのに)、
ダウン症は嫌(受け入れたくない)のか、という事ではなくて、
生まれる前に検査で分る障碍が、たまたまダウン症なだけだという事だと思います。

これから、もし、もっともっと医療が発達して、
ダウン症以外の他の障碍も発見できるような検査が現れたら、
それを希望する人達だっているでしょう。

考えませんでした
くろちゃん -- 2010年05月 8日 23:29:50

  こんにちは。
ダウン症が嫌かと聞かれれば『別に』という感じです。
真面目に考えても、これが答えです。

私は多発性筋腫のため羊水検査は危険だからと勧められませんでした。
また私ももともと受ける気はありませんでした。
羊水検査で胎児のすべてが判るわけでもないですし
ダウン症以外にも先天性疾患って山ほどありますからそれ考え出したら
キリがないです。

私にとって妊娠出産は自分の人生の大バクチだと思ったので
機会に恵まれたからいっぺんやってみようというノリでした。
ただひとつ、『機械だらけ、管だらけ、薬漬けでないと生きられない子なら
積極的治療はしないで天に返そう』とだけ思っていました。
(今後そう言う状況になっても多分変わらないと思います。)

自分の子と言ってもしょせんは別の人間、その行く末までを
先に老いて死ぬであろう自分が正確に予見し見届けるのは無理です。
与えられた環境の中で自分にできる事をするだけです。

我ながら冷たいかなぁと思うのですが本音はそういうところです。

嫌であろうが なかろうが
イカ太郎 -- 2010年05月 8日 10:11:47

  おはようございます
姉の子がダウンちゃんです
彼は今18歳です
赤ちゃんのときは双子の姉(健じょう児)よりも可愛くて人気ものでした 今いろんな問題が頭をよぎります(就職、結婚、親の死後の事)国が保護してくれるといってもやはり不憫で心配です
今までもいろんな困難がありました が 何とかやってきました
普通の子だって人生は厳しいですが、やはり健康であるという事は
強いみかたです
モザイクではないので就職や結婚はあきらめざる得ないでしょう
(彼が誕生時医者に言われたことばです)
43歳で妊娠した私は、1/11という確率に驚いて
姉に黙って羊水検査を受けました

ももっちさんのおっしゃる 受け入れるのに10年かかりました
嫌であろうが なかろうがそれが答えのような気がします

はい
あち -- 2010年05月 8日 07:51:39

  嫌です。
シンプルにそう質問されたら、即答します。
なぜこのような質問を投げかけたのか?わかりませんが、、、
自分の大切な子供に生まれてから障害が発覚するのと、
ダウン症の子を選ぶのとは訳が違いますよ。
ダウン症は嫌かどうか聞かれたら、私は嫌と答えます。

嫌ですね
ゆるり -- 2010年05月 7日 18:42:42

  主さまはお幸せな人生を送られておられるとは思いますが本当の本当は大変なのではないですか?と私は逆にお聞きしたいです。
10年かかりやっと受け入れられたとのこと それを否定するつもりはありません。
私も障碍のある子供を出産したときは途方にくれました。この子を殺して自分も・・・とさえ思いました。
やがて私も「受け入れ」ることとなるわけですが それは「受け入れ」たわけではなく「諦め」という感情に近かったです。
こうなってしまったのだから仕方ない、この子と生きていくしかない この子なりの成長を楽しむしかない そう腹をくくったにすぎません。やがてかけがえの無い可愛いわが子になっていくわけですが それでも健常だったらどんなに幸せかと何度も夢見ました。だからといってわが子を否定しているわけではないです。大事で大事で可愛くてたまりません。それは主様もわかっていただけると思います。自分の中では矛盾なく同居できている感情です。
私の場合は早くに亡くしてしまったのですがそのときは気が抜けたというか自分が自分でなくなるような 自分の中の大事なものが抜け落ちたという感じでしばらく起き上がることができませんでした。でも可愛い盛りのときに亡くしたからかもしれません。成長し大人になっても介護が必要で自分も老いてしまって・・・という状況だったらまた違った感情があったかもしれません。
実際そのような状況も養護施設に通院されていたら目にすること多くないですか?50過ぎの子供の車椅子を押す80近くの母親なんて珍しくないですから・・・。
私はその後も子供に恵まれ末っ子を超高齢で出産していますが羊水検査こそ受けませんでしたが健康に生まれることだけを願い続けました。そして無事健康に育ってくれている子供達のことが何より嬉しくて幸せに思っています。
元気で成長してくれさえすれば何も望まない そう心から願っています。それが親としての本音の気持ちではないでしょうか
病気の子供が不幸と言い切るつもりは無いです。でもその幸せはその人生の中での「幸せ」に過ぎないと思うのです。私が未熟なだけかもしれませんが私はそうでした。
私は亡くなった子供も大切だったけれど その後に健康な子供達に恵まれ本当に幸せだったと思います。
気分を害された方がおられたらごめんなさい。私はもしまた妊娠することができ そして選択することができるなら間違いなく健康な子供を選びます。

ももっちさん、五月雨さん
しゃぴろ -- 2010年05月 7日 17:59:46

  ももっちさん、

こんにちは。
大切な大切なお子さん、親だからこそ、幸せになってほしいと心の底から願うのでしょうね。
そして、世間の多くの人には備わっている何か(健康とか、能力とか…)が、よりによって、大切な誰よりも幸せでいてほしい我が子に不足しているかもしれないということがどれだけ受け入れがたいことか、私には子どもがいませんが、その身になればどれだけ辛いだろうと思います。
だからこそ、軽々に、勝手に、ましてともすれば否定的な姿勢で、当事者でもない人に話題にしてほしくない、という気持ち、とても分かる気がします。お子さんを大切に思ってるからこそ、当事者として書き込まずにいられなかったのでしょうね。

私はどんどんそうやってご発言されたらいいと思います。
勝手にいろいろ言われるのはイヤ、と。
辛いこと、苦しいことは、辛くて苦しい、と。
自分自身にはおこっていない出来事に、人はなかなか心が思い至りませんもの。

ただ、羊水検査の一連の話題は、おそらく心の根は同じで、我が子の幸せを願うからこそ負の感情に苦しめられている、そしてその気持ちに寄り添おうとしている、いわば別の形の当事者なのではないか、ということも少し想像の翼を広げてみてもいいかもしれません。



五月雨さん

こんにちは。横レスですみません。
参考になるご意見、いつも勉強させていただいています。

>電車の中、バス停、公共の場所でコドモが奇異な行動をとった時、
>私達はまるで、そこに居ないかのようでした。
>まわりの人達は、決してこちらを見ようともしないし、ましてや
>声をかけるなんて事は皆無。
>聞けばどうすればいいのかが分からないのだとか。

これは本当にそうです。
どうすればいいのか分からないんです。

この場面ではこう振る舞うみたいな社会的規範とは異なる行動をみかけても、あえて目を向けないことが礼儀にかなってる、と咄嗟に思ってしまうんですね。
それは障がいがあるからではなく、相手が誰であれ、自分自身の振る舞いとしてそれが礼儀だと育てられてきたから、というある種の中産階級的習慣によるところ大なのですね。
障がいの有る無しにかかわらず、各人の振るまいは、各人がやりたいようにやっているからだ、という基本認識のもとでは、誰かの振るまいが自分の中の規範とは異なっていても、目を向けないことが=批判をしないことであり、それが社会的トレランスであり、各人が社会で好きなように振る舞える根拠なのではないか、とかいったことを、なんとなく思ってるんですね。

しかしながら、そうした習慣が思いもよらず誰かを傷つけているのだとしたら、それは悲しいことですね。

逆に言うと、走り回ったり大きな声を出しているお子さんがいたら「元気がいいね〜!」とか声をかけたりすると、お互いに楽しい気持ちになるのかしら。
それとも、付き添いの方に?
でもお手伝いを求めている、と感じる場面はほとんどないですし、それなのにいきなり駅や街中で見知らぬ方に話しかけるというのも敷居が高いものです、都市の生活だと特に。
いきなり声をかけたりしたら、ご本人のみならず、付き添っているお母様が困惑されるのではないか、などと思ってしまいます。

私の場合、さらに自分が疲れ切っていて、単に周囲に気持ちが回らないということもありますが、
街中で(奇異な行動?を)見かけたらこんな風にコミュニケートしてます、みたいなお話があったら、よかったら聞かせて下さいませんか。参考にしたいです。


ところで、一つ、思い出話をさせてください。

私が小学生の頃、父の仕事の都合で海外に駐在していたことがあり、治安の関係もあって日本人はいくつかの外国人用住宅を拠点に固まって生活していました。

マンションの同じフロアに障がいのあるお子さんがいらっしゃる日本人のご家族がいて、
お母様がよく、そのお子さんを乳母車に乗せて散歩させていらっしゃいました。上品で物静かな方でした。

時々同じエレベータになったりしたことから、何回か弟と二人でお宅に遊びにいった折り、
そのお宅のお子さん用の簡易流動食のようなものがとてもきれいで珍しくて
(その国では当時、日本製のきれいな作りのものは何であれ珍しかった)、
そのお母様にねだってひとつふたつ頂いて返ったことがありました。

家に帰って「貰ったんだよー!」と母に報告すると、非常に険しい顔をして、「返してらっしゃい」と。
その国では簡単に手に入らないそうした貴重な品、そのお子さんにとってはきっと必要な品を、ただ、欲しいからというだけで頂いたりしてはいけません、と。

それで私はイヤイヤながら、母と謝罪の傍らお返しにあがったのです。

そのお母様は、いいのですよ、と、おっしゃいましたが、結局、お返ししました。
そのときのお母様のさびしそうな顔をみたときに初めて、彼女が何かを抱えていて自分がその何かに触れてしまった場面にいることを直感で感じ取りました。
「また遊びにきてね。」とおっしゃった表情が忘れられません。

今、自分が大人になって、既にその当時の母の年齢もとっくに超えてしまいましたが、あの頃を思い出すに付け、気持ちが締め付けられるようです。

外国の狭い日本人社会で、母親達の交流に交わることもなく、毎日外で群れて遊び回っている子ども達を乳母車をおしたお母様はどのような気持ちでみていらしたのか、と思います。
そうした中で、気まぐれに遊びに立ち寄った私たち姉弟をどのような気持ちで迎えて下さったのか、と思います。

そのご家族はそれからしばらくしてご帰国になり、その後は全く交流もありません。

今私は、あの頃の母の判断は一つの常識ある大人の態度ではあったのかもしれないけれど、何かもうちょっと違う対応があったのではないか、と思ったりします。

嫌です。
希望 -- 2010年05月 7日 14:00:19

  嫌?と聞かれたら嫌です。
だって、大変ですから・・・
後からわかった障害なら、やっていくしかないけれど、できればあえて大変な道は避けたいと考えるのは自然じゃないでしょうかね・・・
今、寝ている子供は17歳で、5歳で発病しましたけど、大変です。子供はかわいいけど大変です。体力的にかなりきつくなってきました。
10年前と今の大変さは違ってきています。10年後の大変さはもっと大きくなっているでしょうね・・・
10年経っても私は元気でいられるかなあ・・・旦那の老後は少しでもお金を使わないように、私が介護して、ぎりぎりまで私が子供の世話をして、子供を施設に入れて、私が施設に入る。うまくいけばいいのだけど。とにかく、施設のお金を貯めるしかないですから、節約節約!

現実は厳しいですよ。他人から、尊い命だとか、あなただからこそ来てくれた天使だとか、強いわねなどと言われてきましたが、いつもわかったような振りして言わないで!と思ってきました。
病院へおんぶして行ったり、介護を手伝ってくれるわけでもなく、お金を出してくれるわけでもなく、薄っぺらい言葉だけなんて一番いらないことです。

天使のような赤ちゃんはいつまでも赤ちゃんじゃないです。
男女とも二次成長もきます。
親もそのうちに老人になっていきます。子供が小さい頃は、ダウン
症の子供も、他の障害の子供もよく集まって出かけたりもしましたが、みんな、子供の体が大きくなり、親も体がもたなくなってきて、もっぱらメールや電話になってきました。
抱える悩みは同じ。無我夢中で育てている時期を通り越したのですぐに自分の体のこと、子供の将来のことの話題になります。でも、お互いに自分の子供のことで精一杯だから、何かあっても代わりに看てあげることはできないですからね。

私は羊水検査も産まない選択もありだと思います。
本人もアドバイスをされる方々も、天使のような赤ちゃん時代だけを考えるのではなく、10年後20年後30年後の将来も考え、家族構成や家計も含めてそれぞれの家族が出した答えが正しいのだと思います。

う〜ん
とくめい -- 2010年05月 6日 21:28:05

  はじめまして。ももっちさん。

もしかしたら、感情に任せてかいてしまったのかしら?と思わずにはいられません。

いや、いやじゃない、どっちか!!と突き詰められたら
いやでしょう・・・。
でも、それは知らない世界や生活に戸惑うようなこと、
その子供の将来をあんじての、いやでしょう・・です。
決して、子供を否定していることではないのです。

あとからわかる障害や、なんらかの事故などによっておこるかもしれない障害、誰にだって、我が家にだって起こりうるって思っているととおもっています。

人には心があり、感情があり、やさしさや思いやりもあるけれど
嫉妬や妬み、苦しみだって持っているのです。

自分の心の、負の感情を否定しようと頑張って、もがいている人もたくさんいるのです。
その心に寄り添うように励ましている人の文章が見えてきませんか?


怒りからは何も生まれない。
五月雨 -- 2010年05月 6日 17:02:22

  お気持ちお察しします。

障碍の子を授かりたくない。
神様に白羽の矢を立てられるのが、どうか自分でありませんように。
そう思ってしまうのは、自然な感情・不安だと思います。
ももっちさんが、お子さんの運命を受け入れるのに10年を
費やしたのと似ていて、みんな出来れば平穏無事に人生を
送りたいと願っているものなんだと思います。

親って本当に欲深い生き物なんですね。
産む前には五体満足に生まれて欲しいと願い、
産んだ後には、健やかに成長して欲しいと願います。

私も、出産前は色々と想定しました。
しかし、検査するつもりはなく「覚悟」して出産に挑みました。

ももっちさんと同じ経験はしていませんが、身近に障碍と
呼ばれる個性をもって生まれてきたコドモ達を知っています。
美しいことも、悲しいことも、残酷なことも、素晴らしいことも
彼らから、その親御さんから教わりました。

私が、彼らと接していて一番辛かった、というより憤りを
感じたのは、世間の人から無視されたことです。
正確に言えば、無視されたと感じざるを得なかった経験です。

電車の中、バス停、公共の場所でコドモが奇異な行動をとった時、
私達はまるで、そこに居ないかのようでした。
まわりの人達は、決してこちらを見ようともしないし、ましてや
声をかけるなんて事は皆無。
聞けばどうすればいいのかが分からないのだとか。

障碍の子が我が子として生まれなかったとしても、
私達は、個々の運命の下、同じ社会で生きているのだという事を
もっと実感して欲しいと願っています。
私達は、誰一人無縁ではなく、同じ社会で繋がっている事実から
目を背けないでと願っています。

今回、ももっちさんは、こちらの掲示板で色んな意見をご覧に
なられて、ご気分を悪くされたかもしれませんが、
「私」を特定しないインターネットのコミュニケーションでは
タブーとされているような話題で本心を吐露しやすいのでは
ないでしょうか。私もそうです。

そこで他人の本性を知ったとしても、自分の感情を掻き乱す
ようなことはせず、ただ受け流すように努力しています。
その方が幸せが寄ってくるそうです。

障碍を持たずとも、過酷な運命の中、明るく生きているコドモ達が
います。私も、そういう人間になりたいと努力している最中です。

 
  • ご利用に際してのルールとお願いを読む
  • 名前、ハンドルネーム、タイトル、投稿文には、半角カタカナ・半角記号を使用しないで下さい。
    正常に送信されない場合があります。
  • メールアドレスは必ず半角英数字をご使用下さい。
  • お名前、メールアドレスは掲載されません。

bc-community

babycomメンバーズ
コミュニティはこちらから