医療介入を極力控えた自然な出産が人気の秘密
奈良に向かう電車は連なる畑の中を走ります。そこここに古墳や遺跡が今も眠っているその大地には、どことなくゆったりした時間が流れているように感じられます。悠久の昔から流れてきた、日本の古来の時間でしょうか。そんな奈良の中心部から少し離れた田原本町に、久産婦人科医院があります。産院の裏には畑が広がり、のどかなたたずまい。
久産婦人科医院は、月の分娩数が70件を越える人気のクリニック。開院して17年間で、総分娩数は15000例を越え、クリニックの規模では全国的にもとても出産件数の多い産院です。田原本近郊はもちろん、奈良の市内や他県からも出産にやってくるそうです。
その人気の秘密は、産む人と生まれてくる赤ちゃんのニーズにそった自然な出産にあるのかもしれません。できるだけ医療の介入を少なくしようと努力しているその姿勢は、数字にも表われています。
過去10000人の出産例をみると、帝王切開率2.2%、会陰切開率10%、吸引分娩5%など、どれをとっても現在の産科医療の中では、医療介入率はだんとつに低いと言えます。これは、久先生の自然分娩にむける積極的な考え方によるもの。たとえば、前回帝王切開をした人でもほとんどが自然分娩にトライし、その9割程度が成功しています。逆子の場合には妊娠34週ころに外回転術(おなかの中の赤ちゃんの位置を正常に戻すために、超音波装置で胎児の様子を観察しながら、おなかを触って直す方法)を行ない、ほとんどの妊婦は逆子を直して出産に臨みます。こうした予防的なケアによって、全体の帝王切開率や医療介入を押さえることができるのです。
産科医は久先生ひとり。すべての妊婦や婦人科の患者を診察し、お産を介助しています。その多忙ぶりは想像をはるかに超えることと思いますが、それでもすべてのお産に立ち会うことが、産む人への安心感につながっていくのでしょう。こうした顔の見える医療、医師との信頼関係も、高い人気を支えているのかもしれません。
取材にうかがった土曜日の午後、産院のロビーでは出産準備クラスが開かれていました。久先生がホワイトボードをつかって、お産のメカニズムについて説明します。
「出産は産む人が自分で産むんだという心構えがキーポイントになります。人間は大脳皮質が発達してしまったゆえに、必要以上に不安を抱いて難産になることもあります。からだを動かして、食に気をつけ、健康を保ってお産に臨んでください」という話を、25人ほどの妊婦さんたちが熱心に聞きいっていました。
水中出産ができる分娩室
久 靖男先生は、フランス人産科医ミシェル・オダン先生の代表的な著書「バース・リボーン」(現代書館)の監訳者でもあります。産科医としてオダン博士に出会ったことが、久先生にとって大きな契機になったといいます。
「オダン博士は、すでに20年ほど前に、世界の産科医療のあり方に警告を鳴らしていた人です。当時、先進国で行なわれていた病院出産は、麻酔や薬剤、医療機器や技術を駆使した医療介入が多く、それは自然な出産メカニズムを無視するものでした。医療介入は、それそのものが出産のリスクを高める原因になるだけでなく、母親から産む喜びを奪ってしまうという博士の考えに共感しました」
オダン博士は、水中出産を世に生み出したことで世界的に知られている産科医。久先生ははその著書に出会い、1980年代後半、日本ではもっとも早い時期に水中出産をはじめた第一人者です。今でこそ水中出産は特別めずらしい出産法ではなくなりましたが、日本では90年代に入ってから、おもに助産院を中心に各地でトライされ、徐々に広まっていきました。
久産婦人科では、それまで簡易のバースプールで行なってきた水中出産をさらに発展させるために、95年に本格的に水中出産ができる浴槽を備えた分娩室をつくりました。
柔らかい色のタイルで敷き詰められたその部屋には、脚を伸ばしてゆったり入れるほどの大きめのバスが中央にあります。
欧米では80年代後半あたりから、水中出産ができるバスタブを分娩室に設置する施設が出はじめました。お風呂に入ることは、その中で産む産まないにかかわらず、陣痛の痛みを緩和する効果があります。お湯につかることによってリラックス感が得られ、姿勢も自由に変えることができるので、エンドルフィンというホルモンがたくさん分泌されます。これはストレスを軽減させるホルモンで、緊張やストレスによって生み出される痛みを軽くし、また陣痛そのものを有効に働かせ、出産がスムーズに進むようになります。
バスタブの中は外界と遮断されてプライバシーが保たれるので、産婦は自分のからだに湧きおこる感覚に耳をすませることができるようにもなります。
さらに、会陰部がお湯によって適度に延ばされるので、会陰切開をする必要が減少するなど、水中出産は、薬剤や医療技術に頼ることなく、自然で自由な出産を行なうことができるひとつの方法なのです。
母と子の絆づくりを大切に
とはいえ、久産婦人科医院での水中出産はこれまでに320例ほど。水中出産は、希望した人にのみ行なっている選択肢のひとつに過ぎません。
「お産には、この方法がいいというマニュアルはありません。ひとりひとり違いますから、安全性を確保した上で、産む人が一番いいやり方を選択することができるように環境を整えることが、大切だと考えています」と久先生。
プールのある部屋のとなりには、もうひとつの分娩室があり、そちらには低く大きなベットが置かれています。窓からは柔らかい光が差し込んでくる、まるでどこかの家の寝室のような部屋。その大きなベットの上で、産婦は楽な姿勢をとりながら出産することができます。その部屋のとなりには手術室があり、緊急な場合にはすぐに対応できるようになっています。
「分娩台に縛られない環境で、産婦が自由にからだを動かせること、そしてプライバシーが確保された中で、夫や家族に囲まれて、安心して出産に臨むことがリラックスにつながります。女性がからだに元々備わった力を呼び覚ますことによって、出産は自然に進むのです。医療者はそのために、産婦を援助し、リラックスできる環境をつくる存在であると思います。反対に過剰な医療介入は、出産の自然なメカニズムに影響するだけでなく、母と子の絆の形成を破壊します。女性が子どもを出産する機会が少なくなっている少子の時代だからこそ、一人ひとりの出産が大切に扱われることが必要だと思います」
こうした久先生の考え方は、出産直後にもあらわれています。水中出産でも、フリースタイルの出産でも、生まれたばかりの赤ちゃんは母親の胸にすぐに抱かれます。これは、母子の
ボンディング(絆づくり)を強める効果があると言います。
生まれたばかりの赤ちゃんと母親が、すぐに離ればなれになって別々の部屋で過ごす施設は数多くありますが、一方で、生まれてきた赤ちゃんと母親、あるいは父親がいっしょの時間を過ごすことが子どもにとって必要であるということが、世界的に言われています。医院では、入院室はすべて個室で母子同室。母親はいつでも赤ちゃんを抱き、母乳をあげることができます。
「絆の形成はその後の育児にも大きくかかわってきます。これは今問題となっている児童虐待や子どもの心の問題と無関係ではないでしょう。女性が自らの力でわが子を産み、その裸の胸に裸の赤ちゃんを抱きしめることには、無限の意味があると思います」
出産は無事に終わることが目的なのではなく、その後の育児にもつながっていく大切なとき。久産婦人科医院は、それを大事にし、援助してくれる産院です。
取材/きくちさかえ 2001.4月掲載 2006.4月更新