家族入院もできるアットホームな助産院
北海道には、独特の風が吹いている。北海道を訪れるたびに、そう思います。春も夏も、そして厳寒の雪に閉ざされた冬も、大地を吹き抜ける風はとてもさわやか。それは、どこまでも広がる空のせいかもしれません。遮る山もほとんどなく、北の広い大地では町並みもゆったりとして見えます。
北海道の東の半分、道東(どうとう)と呼ばれる地域は、とくに自然が豊か。知床、阿寒、釧路一帯は、森の中にたくさんの湖が点在し、まるで北欧のような景観。さらに太平洋に面した釧路の町の背後には、釧路湿原が広がっています。ここはタンチョウヅルをはじめ、多くの鳥や野生動物たちが棲息しているサンクチュアリ。そんな釧路の町はずれの住宅街の一角に、マタニティ・アイ助産院があります。
助産院というのは、助産婦が営む小さなクリニックのこと。かつて助産院は、全国各地にたくさんありましたが、今では数が少なくなり、北海道でも数えるほどしかありません。助産院では、健康な産婦を対象に自然なお産を行なっていて、何か医療的処置が必要な場合には、嘱託の産婦人科医が診療にあたります。
マタニティ・アイの助産婦は、院長の春日井六実さんと、成瀬恵さん、竹谷淳子さんの3人。2階建てのゆったりとした一軒家で、助産院の奥は成瀬さん家族の自宅になっています。そんな助産院で、自然で家族的なお産が繰り広げられています。
1階の玄関を入ると、受け付けのとなりがゆったりとした待ち合い室。ベビーベットがおかれ、診察にいっしょに訪れてくる小さな子どもたちのためのおもちゃや絵本が置かれています。
ここはときどき親子のためのコンサートや人形劇などのイベントが行なわれ、ミニホールに早変わりすることもあるのだとか。毎年クリスマスには、コンサートが開かれ、マタニティ・アイで生まれた赤ちゃんと両親たちがたくさん集まってきます。
受付の奥には、外来の診察室や、おっぱいマッサージのための部屋、分娩室、おいしい手作り料理がつくられるキッチンがあり、アットホームな雰囲気。外来と分娩室には超音波モニターが備えられ、胎児の状態をしっかり監視しています。
2階は、入院室。和室、洋室がそれぞれ2部屋。上の子どもや家族がいっしょに泊まっていくことも多いそうです。
家族入院ができることは、子どもがいる家族にはとてもうれしい配慮。
取材した日は、2組の赤ちゃんと母親、そしてそれぞれの上の子どもたちが泊まっていました。
自宅出産の援助
マタニティ・アイでは、入院のほかに、自宅出産への援助も積極的に行なっています。広い北海道では、家がポツポツと点在している地域があり、大きな自然の中で都会とは違う生活をしている人たちもいます。そうした中には自宅での出産を望む人たちもいます。
院長の春日井さんは「家族本意のお産をしていきたい」という思いから、自宅出産を何年も前から援助してきました。自宅出産は、住み慣れた自宅で、家族に囲まれた日常的な環境の中で赤ちゃんを産むことができる、まさに家族中心のお産。助産婦は、産婦の家におじゃまして出産を援助します。ときには、100キロほどの道のりを、車を飛ばして駆け付けることもあるといいます。
「冬の雪道でも出かけていきます。まにあわないといけませんから、ちょっとスピードを出し過ぎてしまうこともありますが」(笑)。
現代の北海道の助産婦にとって、車の運転は必須アイテム。愛車には、酸素ボンベやお産キットが積まれていて、いつでも駆け付けられるように用意されています。
「先日、とっても素敵なお産があったんですよ。夫と上の子に囲まれたお産でした。お産が終わったら、ご主人が豆を挽いてコーヒーを入れてくださったんですが、お産の感動と興奮が冷めやらなくて、思うようなコーヒーが入れられないと言うんです。私たちのためにおいしいコーヒーを飲ませようと、結局3回も入れ直してくれました。そうした温かい気持ちとこだわりが、家族を大事にしている姿勢にあらわれているように思えて、とてもうれしかったですね。自宅出産では、家族のそうした温かさに触れることができる。私たち助産婦も、エネルギーをいただいています」
自宅出産のあとは、助産婦3人が交替で産家に1週間ほど通います。それでも、助産院で出産するより料金は多少安いのだとか。
自然の中で産むということ
院長の春日井さんは、昨年、釧路のとなり町、阿寒町の山の中に山荘を建てました。となりの家まで2キロという、まわりにはほんとうに何もない一軒家。居間の大きな窓からは、彼方の太平洋から昇る日の出が臨め、夜には満天の星空の下、遠くに釧路の町の夜景が見えるまさに絶好の場所。
自然のお産を追求してきた春日井さんは、自分自身もまた、自然に囲まれた生活をずっと夢見てきたと言います。
「将来はこの山荘でも、希望される方がいたら、お産をしていきたいと思っています」
阿寒は、先住民のアイヌが古くから住んできた美しい大地です。アイヌのおじさんから昔、こんな話を聞いたことがあります。
「アイヌは、森にも川にも、鳥にもサケにも、草の一本一本にまで、カムイ(神)がいると信じているんだ」と。自然なものには神が宿る。当然、アイヌの考えでは、お産にも神様がいました。その神が、お産を守ってくれると信じていたのです。
日高山脈の麓、平取という小さな村に、かつてアイヌのお産婆さんがいました。この人は青木愛子さんといって、アイヌでは知られた産婆で、カムイに祈り、カムイの力を借りて、お産を介助し、病気治しもする、不思議な力をもった人(シャーマン)だったと言われています。
『自然なお産』と言うとき、『自然』とは何なのか、もう一度考えてみる必要があるかもしれません。ふだん自然とかけ離れた生活をしている女性が、お産の場面だけ自然を手に入れることは、お手軽感覚でコンビニで物を買うようなわけにはいきません。
アイヌたちが信じた「自然には神が宿る」という精神は、言い換えてみれば、自然を心から尊重するという意味です。自然はときには災害ももたらし、いいことばかりではありませんが、その自然を人間の力で押さえ込もうとせずに調和を計っていくことを、アイヌの精神は教えてくれます。
医療のバックアップに支えられた出産の安全性は、もちろん最重要課題ですが、それを優先するあまり、自然に産む/生まれることからかけ離れ、女性のからだにも胎児にも自然の智恵が備わっているということは忘れられてしまっています。自然の中に身を置くことによって、人間は自然に守られる安心感を思い出すことができる。もちろん厳しさも感じるはずです。
北海道の大きな自然に抱かれた中で、赤ちゃんを産む。そんな出産/誕生の環境を提供したいと思い描くことができるのは、春日井さんが北海道という厳しく美しい自然を愛し、その意味を心から理解しているからなのでしょう。
取材/きくちさかえ 2002.2月掲載 2006.4月更新