最終回に紹介するのは、米国の環境保護庁のなかの機関である「国立環境研究センター」(NCER)が10年の歳月と1億2700万ドルを費やし60件以上に助成してきた研究プロジェクトの成果を要約した報告書です。今続々と明らかにされつつある子どもの感受性・脆弱性に関する科学的知見について紹介します。
A Decade of Children’s Environmental Health Research: Highlights from EPA’s Science to Achieve Results Program
子どもの環境健康リスクに対する米国の取り組み
環境中の有害因子に対する子どもの脆弱性に目配りをして、様々な環境リスクを総合的にとらえる研究を推進し、その成果を政策に反映させていこうという——そうした流れが、世界的にできてきのは、1990年代だと思われます。一つの区切りになったのは、1997年に子どもの環境保健に関する先進8カ国の環境大臣会合が開催されたことです。
そこで採択された「マイアミ宣言」では、各国の環境大臣が自国の子どもの健康と環境の保護に着手することに合意し、
1)リスク評価および基準の設定、2)鉛の曝露低減のための活動計画、3)飲料水中の微生物の安全性確保、4)内分泌かく乱物質に関するインベントリー(管理のための目録)の作成および毒性評価手法等の開発、5)受動喫煙のリスクに関する情報の共有と子どもの曝露の削減に向けた教育戦略についての情報の収集、6)地球の気候変動による子どもの健康に対する影響への対応、
といった、優先して取り組むべき分野が定められたのでした。これを受けて、世界保健機関(WHO)は「子どもの環境健康を守るためのタスクフォース」を立ち上げ、2002年3月にタイのバンコクで「東南アジアにおける子どもの環境健康に関するバンコク会議」を開催するなど、地域を超えた研究プロジェクトの組織化に尽力してきました(筆者が参加した
国際ワークショップ「子どもの電磁波感受性」やこの連載の
第2回目などはそうした取り組みの一部です)。
そうした流れの中で、もっとも精力的に動いてきたのが、米国でしょう。1993 年に米国科学アカデミーが、報告書「幼児と子どもの食べ物に含まれる農薬」を発行しましたが、これを一つの契機にして、環境保護庁(EPA)が1995年に子どもの健康リスクに関する政策指針を打ち出しました。
早くも1996年には食品保護法が改正され、小児の脆弱性を考慮した殺虫剤やその他の残留・汚染物質の基準値の設定を行うことが決められました。1997年には大統領命令13045「環境健康リスク及び安全リスクからの子どもたちの保護」が発令され、研究体制の構築が始まりました。これを受けてEPAや米国国立環境衛生科学研究所(NIEHS)が大きな研究プロジェクトを立ち上げたのです。
その中で特に注目されるのが、今回紹介する、EPAのなかの機関である「国立環境研究センター」(NCER)がここ10年間で1億2700万ドルを費やし60件以上に助成してきた(その成果は総計1000本を超える論文になっている)研究プロジェクト(Science to Achieve Results (STAR)と呼ばれています)と、今年からいよいよ調査が開始されるNational Children’s Study(胎児から21歳までの全米で10万人を超える人を対象にして健康影響を追跡調査する大規模疫学調査)というプロジェクトでしょう。前者の成果を要約した報告書(全40ページ)が2008年3月4日に公開されましたので、ご紹介します。
“子どもの脆弱性”の科学的課題
子どもの脆弱性とひとことに言っても、解明すべき科学的課題は複雑で多岐に渡ります。たとえば、「子ども特有の行動と環境中の有害因子の曝露との関連性は?」「それは子どもの成長に応じてどう変化するのか?」「健康リスクを高めることになる、子どもに特有の感受性の生物学的メカニズムは?」「子宮に取り込まれた鉛が胎児に影響するとすれば、それはどれくらいの量で起こるのか?」「子どもによる環境中の有害化学物質への曝露を低減させる効果的な方法はあるのか?」「その方法が実際に効果が上がることはどうやって示すのか?」……実験室での研究はもとより、疫学研究、小児科での面接アンケート、地域の協力を得て行う社会実験的な試行、といった多種多様な取り組みが求められることがわかると思います。
この報告書で示されているのは、今述べたような疑問に対する十全な答ではありませんが、これらすべてに対して10年前よりもずいぶんとしっかりした手がかりや見通しが得られるようになった、という点です。それには分子レベルでの計測、診断、モニタリングの技術が進歩したことが大きく寄与していますし、地域に根差した調査と対策が保健医療で重視されるようになってきたことも関連しています。
主だった調査項目には、農薬や大気汚染と子どもの喘息や発達遅滞との関連、自閉症などの神経発達上の行動の異変の原因、複合的な化学物質の曝露の影響、流産・死産に関連する化学物質曝露の特定などが含まれます。
たとえば「3ヶ月未満」でみると……
この報告書では新生児から学童期までの期を発達に応じて6つに分け、研究成果を整理しています(3ケ月未満、6ケ月未満、12ケ月未満、24ケ月未満、6歳未満、11歳未満、ただし、妊娠中の曝露とその影響についても言及されています)。
たとえばこのなかで、「3ケ月未満」のところをみると、「経口ならびに経皮の曝露に関連する行動」として「母乳・ミルク摂取、おしゃぶり」、「呼吸による曝露に関連する行動」として「睡眠、座っている」、「解剖学・生理学的特徴」として「急激な成長と体重の増加、体脂肪の増加、皮膚の浸透性の増加、解毒能力を持つ肝臓中の酵素の活性がないこと、免疫機能が未成熟、酸素の要求量が高いこと、アルカリ度の高い胃液、細胞外液の増加、予想された以上に表層域での腎臓の機能が低いこと」が挙げられています。そして、その時期に関連する新しい科学的知見として、
1) ヒト呼吸器合胞体ウイルス(RSV)に生後1年に感染すると、喘息のリスクが高まる。RSVは、気道にあって環境中の因子と相互作用するレセプターに影響を与えるので、このウイルスが原因となった場合、子どもは特に空気中の化学物質に敏感に反応するようになると思われる。
2)有機リン系農薬を解毒するのに効力のある酵素であるパラオキソナーゼ1がほとんど産生できないので、有機リン系殺虫剤に冒されやすい。この酵素の遺伝子活性が低下した場合、新生児は26倍から50倍も有機リン系殺虫剤のダメージを受けやすくなる。
3)PCBの濃度が高い環境で生活する母親が授乳する場合と同じような曝露環境で、母ラットから授乳した子どものラットは、発達異常、とりわけ聴覚刺激を解釈する脳機能の異常が観察された。
という3点が指摘されています。
この他にも、「妊娠中に曝露する農薬・殺虫剤はとりわけリスクが高くなるのは、1)に述べたような、解毒能をもった酵素の遺伝子が生後1、2年まで発現しないことが関連している」といった発見や、南カリフォルニアで明らかになった「幹線道路沿いに住む子どもに喘息の発症が多くみられること」、「ニューヨーク市では家庭用殺虫剤のダイアジノンやクロルピリホスの使用がEPAによって禁止され、曝露が急速に減ったが、その禁止後に生まれた赤ちゃんが以前の赤ちゃんに比べて全般的により健康な兆候を示している」といった地域の疫学データや取り組みの結果が示されたりしています。他にも興味深い知見が数多く紹介されていますので、この報告書の全体の翻訳が望まれるところです。
日本での大規模疫学調査と私たち
私たちは、米国が巨額の研究費を投じて明らかにしてきたこれらの結果をはじめ、今続々と明らかにされつつある子どもの感受性・脆弱性に関する科学的知見をしっかり受けとめて、子どもの健康を守るための環境リスク対策を確立していかねばなりません。
日本でもようやく昨年から「
小児環境保健疫学調査に関する検討会」が立ち上げられ(環境省総合環境政策局環境保健部環境安全課環境リスク評価室)、妊娠期から12歳になるまでを追跡する大規模な疫学調査(全体で6万人、詳細調査は数千人規模)を2010年からおよそ10年をかけて実施するとの計画が出されています。これは国の大きな予算を使ってしかできない研究ですが、その研究のデザインが世界のこれまでの様々な成果を反映したものになっているのか、そして必要な情報がきちんと公開され、的確に政策に反映されるようになるのか、といったことを見守り、意見を述べていくのは、私たち市民の役割です。そうした働きかけが、じつは子ども守るためになすべきこと、できることの大切な一部なのだ、ということを忘れないでおきましょう。
(文/上田昌文)