今回紹介する『Report on the Citizens' Jury on Air Quality』は、「市民陪審」という手法で得られた「大気の質」に関する英国の報告書です。
国の政策を決めるのは政治家と官僚の仕事、と私たちはつい単純に考えがちなのですが、もし私たち主権者が選挙以外になんら政治の意思決定に関わることができないとすれば、それはとても危ういことです。代議制という間接民主主義の制度を採用してはいるものの、市民が何らかの形でより直接的に、国や自治体の政策形成・決定に参加できるようにすることが大切です。
科学技術の専門的な事柄が関わる問題では、省庁が審議会や専門委員会を組織しそこで結論を出させるというやり方が一般的ですが、専門家ではない多数の市民の意見をどう取り込み、多くの人が納得できるような政策を作っていくのかが、今問われています。
今、注目される新しい手法「市民陪審」とは?
今回紹介する報告書は、「市民陪審」という市民参加の新しい手法で得られたものです。市民陪審とは、ある特定の問題での政策決定のプロセスにおいて、市民からの参照意見を得るために、無作為抽出で選ばれた市民でグループを作り、4日ほどの時間をかけて、そのグループで問題の理解を深め、専門家と対話し、意見を出し、最終的に勧告をまとめてもらう、というやり方です。
英国では1996年に保健医療分野で導入されたのが最初でしたが、すでに様々な問題で200回を超える経験を積んでいます。報告書『大気の質に関する市民陪審 環境政策づくりに市民の評価を位置づける』は、ミッドランド西部の様々な地域から選ばれた22人の陪審員たちが、3日半ほどの市民陪審を経て(2005年12月15日夕方、2006年1月21・22日、1月28日)作成され、2007年の10月に英国の地域環境担当大臣に提出されました。
こうしたやり方は、ただ市民を集めて話し合わせればよいというものではありません。市民陪審の主催は英国のDEFRA(環境・食糧・農村地域省)ですが、運営を担ったのはPeople Science & Policyという民間コンサルティング機関で、ここが、自然科学ならびに社会科学の専門家、Midlands on View(会合スペースを提供・運営する組織)の協力のもとに、議論がしやすいように論点と質問を整え、参考資料を用意し、陪審員たちの質問に応える「証言者」となる専門家を選定し、勧告をまとめるための調整(会合後に行われた陪審員たちへの電話インタビューを含む)や執筆を行う、といった一連のことを担ったのでした。
これは容易な仕事ではなく、偏りのない情報や知識を提供しつつ、陪審員たちが短期間で問題の理解が深められるようにするには、相当しっかりした専門的蓄積とノウハウが求められます。
People Science & Policy
科学技術に関連する公共政策の問題を扱う独立したコンサルティング団体。これまでに取り組んだテーマは、バイオテクノロジー、放射性廃棄物、健康と安全、女性と科学、科学教育など多岐にわたる。各種の専門家を擁し、市民参加の促進、科学技術問題への意識調査、プロジェクトやプログラムの評価や運営、キャリア教育や雇用、科学コミュニケーションなどの業務を請け負っている。
議論を深めることで生まれるユニークな提言
「大気の質」に関する市民陪審だけあって、陪審員に喘息、心臓発作、閉塞性肺疾患をかかえる患者さんたちも含めるという特別の配慮がなされたのが大きな特徴です。しかし、大気についてこれといった特別な知識を持たない市民が集ったわけですから、そもそも「何が大気の質を決めているのか」という点から話し合い、自分たちが知らなくてはならないことを見定めていった、という学習のプロセスが大きな割合を占めたわけです。「大気の質を低下させる要因」「大気汚染物質」「気候の役割」「温暖化との関係」「大気の質の低下による健康影響」といった事柄で、陪審員たちは資料を求め、「証人」への質疑を行っていきます。大気の質を英国の都市ごとで、あるいは国際的に、比較することの重要性が指摘されています。
こうした議論を深めることで、陪審員たちの間に「自分たちは大気についてとても認識が低かった。大気の問題の大切さを教える教育も受けてこなかった」という認識が共有されるようになりました。その結果、「生活の多くの局面において、市民のなすことが大気の質の変化に影響をもたらしている」ということへの気づきを根底に据えた様々な提言が生まれることになったのです。
報告書には、陪審員たちによる次のような提言が、話し合いのプロセスの紹介も交えながら、いくつも記されています。
・自動車を購入した1年後から毎年の排出ガスをチェックし、排出ガス基準との比較値を自動車のどこかに表示させること(自動車メーター自体にこの車が与えている大気への影響を表示させるようにするという案も検討された)
・家庭内でのエネルギー消費の増大が大気の質を悪化させることにつながるので、エネルギー消費量がリアルタイムでわかるようなメーターを個々の家庭に設置する、あるいは身に装着する(「昨年の消費量は○○でした」というような過去のデータをつきつけられるだけでは効果が薄い、という議論がなされた)
・ゴミの削減、リサイクルの推進をさらにすすめる。特に容器包装ゴミの削減・リサイクルやゴミ回収事業の見直しは重要で、この点はドイツの政策に学ぶべきものがある。
・生活の質を維持し高めるために不可欠な交通手段を確保しつつ(「人々に自家用車の使用を控えさせるのは難しいだろう」との意見が支配的)、例えば高コスト、騒音、交通事故といった負の側面を考え合わせた、自動車やバスの使い方の改善が必要。週末のRV車の郊外への乗り入れの制限や鉄道貨物の利用の促進などは強く推奨できる。
・企業には厳しい規制をかけるよりもCSR(企業の社会的責任)に訴えて、例えば北欧諸国の例にみられるように、「よい実践(good practice)」を促していくことが大事。
・例えば「赤・黄・青」で段階分けしたラベリングを商品に付すなどして、大気の質への影響度が消費者にわかるようにする。
・政府は、大気汚染物質の排出削減の推進、大気の質の改善に向けての企業の環境対策の奨励、大気に影響を与える個人の行動への自覚を促すための教育、大気浄化技術などへの投資やサポートといった点を重視すべきである。
専門家だけの議論からは出てこないような視点や興味深いアイデアが記されていると言えるのではないでしょか。この報告書を受けとった省庁は、これに対して検討を加え報告することが義務づけられています。
日本でもそろそろ市民陪審のような市民参加の手法を活用していく時期に来ているのではないかと私は考えています。
(文/上田昌文)