医師からあっさり専業主婦へ
医学部を出て、小児科医として働き出したころ。まだまだ半人前であたりまえなのに、自分の仕事の内容に自分自身で満足できない時期がありました。重い病気の子どもやお母さんを十分ケアすることができないという無力感。どうしてこんないい子がこんな病気になる運命にあるのだろう。
死に直面している子と心身症の子を同時に診ることも、あの頃の私には大変でした。やってあげたいのにできない力のなさを痛感し、頑張って目標を目指したい、もっと先輩のように素晴らしい医者になりたいと思いつつも、「私などが医者になったのがそもそも間違いだったか」などとぼやいたりしてました。
だから、立て続けに受け持っていた子ども達が亡くなった頃に出た結婚の話に、しばらく休みたいとばかりにあっさりと仕事を辞めてしまいました。
納得できないひとり目の出産
夫の勤務地である地方都市に引っ越し、切迫早産で入院。結局、入院生活は10週間続きました。一日一回一時間のモニター検査、数回おなかが張り、そのカーブを見つめる毎日。「この治療は必要なことなのだろうか・・・」と疑問がつのっていきました。ストレスばかりの日々なのに、夫の勤務病院だったこともあり「いい子」になり、疑問を口にしませんでした。
37週で点滴をやめたらすぐに生まれるだろうと言われていましたが、何も起こらず一時帰宅。2週間後の39週で出産を迎えました。多分これが陣痛だろうと、いつもより痛むこととおしるしから受診し、そのまま10時ごろ入院することになりました。おきまりの処置である浣腸を受け(初体験)陣痛待機室へ。
お産用のガウンに着替え、モニターを装着して、仰向けにといわれ、一人にされました。痛みはがんがん容赦なく襲い、とても寝ていることなどできず、起き上がるとずれる機械の端末も、はだけるガウンもどうでもよく、ベッドに座りテーブルに突っ伏して耐えていました。
様子を見にきた夫は「腰をさすって!もっと強く!」という私のすごい剣幕と、はだけたガウンのすごい形相の妻に恐れをなし、早々と退散。午後4時には全開大。その一時間前に「4cmの開大、まだまだ」とずっと放っておかれたのに、一転して数人に取り巻かれてばたばたと処置されました。剃毛、点滴、体位固定、そしていきみたいのに「まだダメ」といわれ、やっとOKが出た時、私はもうほとんど痛みも感じず2回のいきみで長男は飛び出るようにこの世に生まれ出ました。
このとき、会陰切開から傷が大きく裂けて一週間後に再手術するほどの会陰裂傷になり、傷が辛く、また十分な心のケアを受けられなかった出産のショックから立ち直れず、自分のことで精一杯で子どもときちんと向き合うことができませんでした。客観的に見れば、元気な子どもを6時間で出産したのですから、安産なのですが、私にとっては疑問ばかりが残った納得できないお産でした。子どもが男の子でよかった、お産の苦しみを味わうことがないからと思うほどだったのです。
専業主婦時代のストレス
自然な母性感情が湧いてこない、子どもに添いきれない育児は不安で辛いものでした。
『母子相互作用は疑問視されている』という文章に安心したりもしました。
医師としての経験や知識は、私の場合逆効果。正常の子どもを見る目が育っていなかったために、何もかもが心配なことのようにも思えました。子どもの育つ力を信じられず、自分の力でコントロールしようとばかり考えていました。可愛いという気持ちだけでなく不安と緊張いっぱいの母親に育てられて、子どもも神経質でよく泣きました。そのため、また混乱して・・・という悪循環。
専業主婦時代の子育てストレスの経験があるから、育児中のお母さんのストレスはよくわかります。夫婦をはじめとする家族関係、公園や官舎でのストレス、キャリアとの葛藤、そしてわが子のことがわからないこと・・・。
自分の勝手で仕事を辞めたのに、以前の同僚が職場が輝いて羨ましく思えました。何のキャリアにもならない家事や育児をしている間にほかの人たちはどんどん経験を積み、差がついていく・・・と焦る、育児を雑用としか見ることのできない未熟な母親でした。小児科医としての自分にも自信がなく中途半端に辞めたからよけいに焦ることになったのでしょう。
子どもを預けてワーキングマザーへ
早く復帰したい、こんな育児ばかりの生活は耐えられないと1歳で、再就職。
当直や呼び出しの多い小児科勤務はできないため、小児専門病院の放射線科で働きました。私のように以前は小児科医だったけれど、子育て中のため、時間的に束縛の少ない他科で働いている女医さんが何人もいました。同級生だった夫は勤務していて妻は主婦という夫婦もいましたし、仕事を続けるために離婚に至り、子どもを実家に見てもらってバリバリ働く人、仕事も結婚もという両立は無理だから結婚はしないと言い切る人、女医もさまざまです。誰もが、仕事を続けることと結婚出産子育てすることを自分なりの考えで選択していました。
なぜ、男性と同じように勉強し試験を受け研修してきて、結婚以後に大きく生活が変わるのは女性ばかりなのでしょう。職場でも差別区別はされません。「ありがたいけれど、生理中など体力的につらいことも多い」とある心臓外科医は言っていました。「私だって、疲れて帰ったら家のことをして待っててくれる奥さんが欲しい。同僚の男性には奥さんがいて、帰ったら何もせずくつろげるのに」ともいっていました。
小児科ではなかったけれど久しぶりの職場は、私の気分を明るくしてくれましたが、一方子どもは大変な荒れ方でした。朝起きてからが戦争、保育園の入り口では別れ難くて大泣き、日中も「ママ」の一言でまた大泣きするとのこと。それでも、仕事を諦めることはできませんでした。その時の私にはその選択しかなかったし、未熟な母親に辛そうに世話されるよりもいろんな人の手を借りられて子どもにとってもそれでよかったと思っています。
職場で気持ちの切り替えができるようになり、自分の都合で仕事をして子どもに申し訳なく思う気持ちから、子どもにもそれまでよりは優しく接するようになりました。
復職して見えてきた子どもの心
放射線科で働きだして3年後、実家の近くの総合病院の小児科医の求人の情報を得て、私は飛びつきました。やっぱり私は生身の子どもに触れる臨床をしたいとはっきりわかり、実家のサポートを受けられれば当直もできる、と考えたのです。。
その病院は、心身症を専門とする医師が多く、私も摂食障害や不登校の子どもを受け持つことになりました。そうした日々の中で、育児に一番大切なものは、子どもが「自分は大切な存在。愛されているんだ」と実感できることなのだと気づきました。頭がいいからとか、お行儀がいいからとか、性格がよいからとかそんな条件は何もなく、存在そのものがまるごと認められているという安心感が大事なのだと。
ある少女の言った言葉が忘れられません。「親は私を愛していなかったのではないのはよくわかっている。けれど、私には愛が伝わらなかった」。愛しているのに伝わらない、なんて悲しいことでしょう。
親に愛された子どもは自分を大事にできる、だから他人との関係も作っていけるのでしょう。自分を大事にできる人は、人生の苦境にあっても、回り道をしたり立ち止まることがあっても全てを投げ出してしまわないのだろうと思います。
そういうことが、私自身子どもを育てていたからこそ見えてきました。そして、私はそんな育児はできていなかったということもわかりました。その時、もう出産はもういいと思っていたけれど、このままでは母としても小児科医としても後悔が残ると思いました。
もう一度産みたい、本当のお産、納得できるお産、心から愛しいという気持ちだけで子どもを抱ける育児をしたい、絶対。「こんなはずではない」という思いをずっと抱き続け、悩み続け、でもどうすることもできず何年も暮らし、たどり着いたのはもう一度産むということでした。
でも、次男を出産する前の時点では、自分が常勤医を辞めるということは考えていませんでした。働く主婦も多く先輩ママもいたし働きやすい職場でしたから。結局、女性にかかってくる、不公平な世の中だという気持ちも強く持っていました。それでも「仕事も子育ても諦めたくない」と思っていました。
育児で一番大切なことは、子どもの安心感、自己信頼感を育てること、と先に書きましたが、この時点では頭での理解に留まり、本当に心から納得できたのは二人目の出産後なのだと思います。本当の幸せなお産を経験して自分の母性というものを育てることができたら気持ちが180度変わりました。「子どもを育てるのは今の私のキャリアになる」と、再び退職しました。(
>>続く)