| 教えて!上田さん4
子どもの脳のこと、もっと知ろう
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子どもは頭でっかち
赤ちゃんが一番最初に味わう苦労は、お母さんの産道を通り抜けるときでしょう。狭い産道を通るにはその頭は非常に大きいために、身体をねじりながら大変窮屈な思いをして、やっとこの世界に出てきます。そう、赤ちゃんはとても頭でっかちなのです。
大人の脳の重量は体重の約2%なのに比べ、新生児は全体重の約15%が脳という大きな割合を占めています。受胎後100日目で30gになり、6ヶ月もすると外見的にはほぼ完成された形になります。
出産時には400gにもなるという飛躍的なスピードで成長するために“早熟な臓器”とも言われています。出産後は6、7歳で大人の脳とさほど変わらない容積に育ちます。ただし、外見的には変わらなくても、脳の内部では胎児から思春期まで絶えまなく成長し、変わり続けているのです。
脳の中身をのぞいてみると
その脳のなかはいったいどうなっているのかというと、まずは「神経細胞(ニューロン)」という情報を伝えるための細胞が約40%を占めています。神経細胞が互いに連絡を取り合いその中を電気信号(パルス)を行き交わせることで、脳は非常に複雑で精密な働きをすることができます。つぎに脳を多く占めているのが「グリヤ細胞」。脳の約20%がこれにあたり、ニューロン細胞に栄養を運び、脳中の異物を吸収し、神経細胞に髄鞘を巻きつけ神経パルスを通りやすくするなどして、神経細胞の働きをサポートしています。あとは血管や細胞の隙間をうめる脳脊髄液などがあります。そして、胎児期の後半に入ると形成を開始するのが「シナプス」。神経細胞と神経細胞を連絡する接合部分のことです。 出産後も猛烈な勢いで増殖し、生後1、2年ほどで密度はピークを迎えます。物事を記憶したり、感情が生まれたりといった脳の活動は、このシナプスの回路が発達するにしたがって成熟するのです。
このように、脳は胎児期から思春期まで、絶えず変化し発達し続けます。つまり、一見早熟でありながら、ゆっくりと時間をかけて成熟するという面もある器官。精密であるが故に、完成までに時間がかかるというわけです。
脳はナイーブな器官
さて、このシリーズ内で以前に「細胞が分裂している胎児期は環境リスクを受けやすい」というお話が出たことがありました(
現代の環境とヒトの身体ができるまで)。受胎から思春期までの十数年間、絶えず細胞の分裂、増殖を続けている脳は、まさしくそのケースにあてはまると言えます。しかも、他の臓器と比べて複雑な発達をするために、その影響の出方も様々なのです。
引きこもりや暴力衝動が抑えられない、病的に落ち着きがないなど。これらの子どもたちの問題行動は、いったいなぜ起こるのか?
神経細胞の数なのか、シナプスの回路なのか、グリア細胞なのか…影響を受けた部位がどこなのか?
どんなタイミングでどんな物質に曝露したのか?それがどんな異常を引き起こすのか?
こうしたことはまだほとんど解明されていないといっていいのです。
しかし、最近、農薬・殺虫剤などの神経毒性を持つ化学物質やPCB(ポリ塩化ビフェニール)などを胎児期に曝露すると、後に“行動異変”を起こす可能性があることが、実験により示されるようになってきました(※)。こうした研究が進むことで、脳の発達と化学物質の曝露の関係がこれから明らかになってゆくことが期待されています。
※たとえばPCBがきわめて微量で脳の機能の発達を阻害する仕組みが、黒田洋一郎さんらの研究で明らかになっています。脳の形成には甲状腺ホルモンが重要な役割を担っていますが、PCBはこのホルモンの働きを阻害するのです。水酸化PCB(甲状腺ホルモンに分子の構造が似ている)を培養細胞に加えると、脳を作る遺伝子の働きが抑えられてしまうのです。また、培養した小脳の神経細胞に甲状腺ホルモンを加えると脳内と同様の成長をするのに、そこに水酸化PCBを加えると成長が止まるのです。いずれの場合も一兆分の数十モルというきわめて微量の水酸化PCBの濃度で起きています。
親と子の情報キャッチボールが脳を育む
絶えず変化し、発達を続けている子どもたちの脳は、環境に対して非常にセンシティブであることは確かです。そしてそれは化学物質などの物質的な因子に対してだけではなく、ある「経験」をするかしないかといった精神や肉体の働かせ方にも同じことが言えるのです。脳を形成させるのは遺伝子。そして、脳の神経回路を発達させるのは、その過程のなかで受ける外部からの刺激です。母親や父親をはじめとする、周りの大人達のコミュニケーションが、子どもたちの脳をどう発達させるかに深く関わっています。脳は外からの刺激によって、回路をどんどん変化させる器官。これも他の臓器にない脳の特性のひとつと言えます。
「サイレントベビー」という言葉を聞いたことがあると思います。おとなしくて泣くことも笑うことも少ない赤ちゃんのことをそう呼びます。本来、泣いたり声を出したりすることは赤ちゃんの唯一のコミュニケーション手段。その手段を放棄した赤ちゃんは、他者へ自分の気持ちを伝えることを諦め、心を閉ざしています。サイレントベビーとなる原因は、主に母親とのコミュニケーション不足だといいます。赤ちゃんが泣いても放っておく。語りかけもしない。ぬくもりも安心感もないなかで、赤ちゃんは感情を失ってゆくのです。
たとえば日本小児学会では、「2歳以下の子どもには、テレビ・ビデオを長時間見せないようにしましょう」「乳幼児にテレビ・ビデオを一人で見せないようにしましょう」と提言していますが、これは言葉の遅れ、表情が乏しい、親と視線を合わせないなどの症状を抱えて受診する幼児の中に、テレビ・ビデオを長時間視聴する幼児がいて、視聴を止めると症状が改善する一群があることが、小児科医、発達専門家からの相次いで報告されているからなのです。
またヒトではありませんが、生後1年以内に母親や仲間から引き離されて育ったサルは成長した後に不安感を強く持ったり、ストレスへの抵抗性が弱くなったりすることが知られています。コミュニケーションやふれあいの不足が、豊かな感情を生み出すもとになる脳の形成期をどこかで損ねてしまっていると考えられはしないでしょうか。
語りかけ、手を握ること。そうした親の愛情たっぷりのコミュニケーションが、子どもたちの脳の発達を促して、心に人間らしい感情を芽生えさせるのでしょう。
(文・上田昌文)