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トマトの気持ちさんへ 1 たんぽぽ  -- 2006/06/07 ..
トマトの気持ちさん、こんにちは。

 先日のスレについて、少しお話したくなりました。

 私は、トマトの気持ちさんが大好きです。トマトの気持ちさんを見ていると、本当に、苦しんでいる人、辛い立場にいる人を見過ごせないのだなあと思います。苦しんでいる人を見ると、共感するし、何とかしてあげたくなるのですよね。そういう純粋な親切心を大切にしていただきたいと思います。
 ときどき論争になることがありますが、自分の意見を押し付けるのではなく、まじめに向き合って考えておられるのが、よく分かります。

 しかし、生命に関わることについては、慎重である必要もあるかな、と思うのです。

 トマトの気持ちさんは、日本で子供の臓器移植が認められるべきだと考えているのですよね。今の日本なら法律で禁じられていますから、だれも子供の臓器移植を求めてきませんが、それが認められたら、臓器移植を必要とする子供を救いたいという活動をするのなら、まず自分の子供のドナー登録をしなければいけないと思います。

 なんとなく、できると思うということではなく、脳死なら脳死、心臓死なら心臓死と明確にした上で、きちんと子供のドナー登録をした上で、活動できますか。お父さんの体を傷つけたくなかったトマトの気持ちさんが、子供の体から必要なものを全て、他の苦しむ子供に捧げるということができますか。

 私は、いやです。
 日本人である私には、たとえ死後の世界など信じていないと普段言っていても、どうしても、盲目で臓器を抜き取られたわが子が、一人さびしく三途の川を渡る光景しかうかばないのです。そして、そのような状態で死ぬと、来世において、その失った部分に障害をもつように思ってしまうのです。

 そういう感性をもっている人間にとって、わが子の遺体を、まだ暖かく心臓も動いているのに、苦しんでいる子供に差し出せと勧められることは、耐えられない苦しみです。その苦しみは、移植を受けなければいけない子をもつ親の苦しみに匹敵するものだと思います。わが子が死に直面しているという状況に変わりはないのです。

 トマトの気持ちさん、どうですか。法律で認められたら、本気でお子さんのドナー登録をすることができますか。その場の気持ち次第などというあいまいなものではない覚悟と確信をもって、登録することができますか。考えたくないというままでは、その場になったらできないと思います。親にとって、命の危険にさらされている他のお子さんも可哀そうでしょうが、今まさに死なんとする自分の子供の方が、そして、わが子を失う自分の方が、ずっと可哀そうなのではないでしょうか。それを抑えて決断するには、平素からの明確な信念が必要です。

 臓器移植を推進しようとするのなら、やはりそこは問われると思います。もらえば命が助かるからと、苦しんでいるのだから助けてあげなければならないと、それだけのことでは済まないと思います。

 トマトの気持ちさんは、臓器移植を望み選択したこと自体が戦いであるとおっしゃいます。この医療を推進することが戦いに勝つことだと。
 それは、誰のための戦いなのでしょうか。そして、そのような治療を望まなかった人より、望んだ人は勇気ある人なのでしょうか。

 私は、臓器移植を望む方を非難するつもりは全くありません。特に、子供を失いたくないという親の気持ちは、想像するだけですが、よく理解できます。自分や自分の家族の命が大切であるのは、当然のことでしょう。
 しかし、それを尊い気持ちだとは、特別思いません。当然のことだと理解するだけです。

 子供を助けようとすることだけが愛ではなく、子供には子供の寿命があると受け止めて見守ることも、親の愛です。
 羊水検査で、子供に障害があり、生まれたとしても長くは生きられないだろうと宣告された方がいらっしゃいました。その方は、子供の命は子供のものだからといって、妊娠を継続されましたが、残念なことに死産なさいました。そのご夫婦は、全て子供の生命力に任せることをお決めになっており、延命治療はしないとおっしゃっていました。そして、子供の命が続く限り、見守り続けるとお決めになっておられました。
 このご夫婦は、全てを子供中心に考えておられました。子供が幸せなら自分は辛くてもいいと、その子が、いずれ亡くなることを覚悟の上で出産を希望されました。自分の気持ちは二の次になさっていたのです。
 私は、このご夫婦を尊敬します。その、お子さんへの愛を賞賛します。

 トマトの気持ちさんがおっしゃるように、子供の臓器移植を望まれる方は、子供の命を救いたくて必死になっていらっしゃるのです。その気持ちは痛いほど分かります。自分もいざとなったら、そういう気持ちになるでしょう。
 ただ、それは、それだけでは尊いものだとは思えないのです。ごく普通の人情というものではないでしょうか。

 長くなるので2に続きます。


その4   トマトの気持ち
その3   トマトの気持ち
たんぽぽさんへ、 その2   トマトの気持ち
たんぽぽさんへ   トマトの気持ち
障害についての思い   たんぽぽ




 

   >>> その4 トマトの気持ち   -- 2006/06/01..
 
では、脳死とは何か?といえば、私の理解する範囲ですが、大脳・小脳・脳幹が全て死滅している状態であるはずです。
生きている>脳死>完全な死であって、まさに完全な死未満な状態ですよね。
体は生きている、でも、これは脳全てが死んでいるのなら、おそらく、呼吸することも本来は出来ていない状態のはずだと思います。それを指示する機能が失われているわけですから…。
医療器械に生かされている姿なのではないでしょうか?

また、そんな状態でバランスが取れてしまったとき、司令塔がなくとも、体は各器官が連携を取りその状態を維持もしくはイイ方向へ持っていこうとするという話を読んだことがあります。見た目はきっと、脳死をしていない眠りつづけている、昏睡状態の時と、もしくは植物状態?の時と、きっと変わりが無いのだろうと思います。
それを何十日、何ヶ月と見ていれば、奇跡を信じたくなる自分と、死にきることもさせて上げられない自分に私は格闘し、きっと壊れてしまうと思います。
おそらく、私はそれが我が子に起こったなら、犯罪を犯してしまうか・・・いっしょに、死のう・・・・と思うか、耐え切れずに先に死後の世界に行って、我が子を迎えようとしそうです。ほかの方を助ける、人のためになんていうよりは、私と我が子の救済のためにドナーになることを選択しそうです。

そもそも、脳死なんて状態が起こることは、そうそう有ることではないと思いたいです。
心と体と脳と一緒に普通に終焉を静かに迎える。
私はそんな死を出来るなら得たいものだと願っています。
もし、延命治療につぐ延命治療の末、そんな状態になったのならば、それが悲しいことだと思います。脳死に落ち着くことを目標に、臓器を目的にそんな治療はあってはならないように感じます。難しいところだとは思うのですが、救命医療の末の結果、そうなってしまった、で有るべきだと思います。

>子供を助けようとすることだけが愛ではなく、子供には子供の寿命があると受け止めて見守ることも、親の愛です。
わたしは、この例に出てくるご夫婦ほど、強くは無いのでしょう。
きっと同じような状態で出産したとしたら、そして死産ではなくそれを迎えたとしたら、
1日でも長くその子の成長を見たいと願い、その子が笑えば、その笑顔を1日でも長く見たいと願ってしまうと思います。その延長に移植があれば、すがります。
寿命と受けとめきれないと思えるのです。
それと同時に、上記に記したように救命医療の末、その子が脳死を迎えたら、静かにその時を待てるのか?と問われれば、おそらく自分と我が子の救済のためにドナーになることを選ぶとおもえるのです。
私はきっと弱いのです。自分の気持ちは二の次には出来ません。
 





   >>> その3 トマトの気持ち   -- 2006/06/01..
 
 もし、新しい法案が出来、個人の意思決定を重視し、脳死の判定も信頼が置ける状態で、ドナーになるに丸をすれば、提供できる臓器はラインに乗って移植者へ速やかに届くようになったとします。
その仮定がある上でですが、ドナーになる意思表示に、案外あっさりと提供するに丸を私はつけます。

そして、子の場合、親の意思によるところで、それが行われたとします。そして家族の場合、本人の意思により、それが行われたとします。その時のことを何度も何度も想像しました。
これが、とっても心に痛い出来事です。本当に心臓がパンクしそうな状態です。考えたくない事のおそらくNo1と言っても過言ではないでしょう。。。。

たんぽぽさんは、私は、いやです。とはっきりとおっしゃる。
それ、とっても普通の感覚だという事もいやというくらいわかります。

ただ、死後の三途の川を渡るときのお話は、私にはそう思えませんでした。
実際、義母は片足を切断後、旅立っていますし、母も子宮、卵巣、リンパ、そして小腸も大腸も最後は殆ど残っていない状態でしたし、義父は肺動脈を固める手術の折、脾臓摘出していますし、わたしも卵巣と盲腸もすでに体の中にありません。…。これが、目であっても、心臓であっても、他の臓器であっても、ごっそり抜け落ちていたとしても、もし、来世があるのなら、きっと大丈夫と思えてしまいます。ましてや、もし、自分の臓器が他の体で生きているとしたら、もし、心が魂となって現世を見れるとしたら、私なら、嬉しいと思えるのです。喜んでいる方がいるのなら、死後の自分は嬉しいはずと思えるのです。

臓器移植を考えるとき、やはり脳死のことははずせない大問題だと私は思います。

実はドナー側の親族にも心臓死→移植(もしくは生体間移植)を受ける側の親族にもなりえたかもしれないという経験が私にはありました。
私は、義父、父のことをこの前のスレットで書きましたが、それは、深く考えていないとっさの時の自分を書いたつもりです。
そして、たんぽぽさんがおっしゃるとおり、(考えたくないというままでは、その場になったらできないと思います)だと、私もそう思います。
とっさに、NOを言うのは、凄く簡単で、そして、誰もそのことを責められるべきものでもないし、至極当たり前の事として誰もが思うのが普通だと思うのです。

ただ、ちがう視点で考えることはできます。

臓器移植のドナーになるならないなど考える暇も無い、急変につぐ急変で危篤状態に肉親がなり、そして手を尽くした上で、死へ向かうスピードにブレーキをかけるのが精一杯だった、それが、脳死という状態であったというところあれば。。。。
一呼吸おき、このままでは完全な死をそっと受け入れるしかないとき、肉体の一部が生きていてくれるという事を糧に出来るのではないか?と、初めて提案を受けたとしたら、完全な死を受け入れるまでの執行猶予を悲しみに暮れ、名残など尽きるわけがなく、過ごさねばならないいつ終わるかも解らない苦しみの中に居る時に言われたとしたら、私はドナー提供の提案を受け、それを希望に変える選択をすると思うのです。
それは、急変に告ぐ急変で危篤状態になり、これを抜け出す手立ては臓器移植しかないと告げられ、それをしなければ、死を待つだけの時間になると宣告されたら、私は臓器移植を模索し、藁にすがるという思いと、同じところからきていると思えるのです。

この同じところからきていると思える気持ちは、想像ではなく、実体験からきているのです。脳死からすぐに心臓死へ移行するような形の死では、おそらく臓器移植うんぬんの前に、オロオロする時間の経過の中、ただ、死があるだけで、その提案すら出来ないのではないか?と思うのです。

文章にまとめるのが、自分で四苦八苦しています。
 





   >>> たんぽぽさんへ、 その2 トマトの気持ち   -- 2006/05/31..
 
続きです

なんだ?トマトはまだドナー登録してないんじゃないか!!と声を頂いてしまいそうですが、実は今のドナー登録、実際のところ、無意味に感じてしまうのと、日本の脳死判定に対する信頼を私はまだ持っていないのです。それで、何度か手にとったことは有るのですが、記入したものは、今は持ち合わせていません。

今の日本のドナーカードは「臓器意思表示カード」ですよね?
でも、仮にこれに+αで切々と臓器を提供したいと訴えたとしても、家族の反対があれば、されることは100%無い…。

仮に、自分の場合、生前である今、何度となく話し合ったとしても(実際、何回か話題になって、その時は本当に軽い口調でドナーになるべきだよなぁって話にはなるのですがおそらく、相棒はこういう状況になるというシュミレーションまでは想像できないと思います)、その時に同意を得ていたとしても、いざその時は、おそらく、NOを言ってしまうだろう相棒の存在を私は感じています。

子については、話し合う機会すら得られずに居る状態です。
いずれきちんと話し合わねばと思っています。
今回の見直し案がもう少し具体的に法案として動き始める頃、それを一つのチャンスと捕らえて、話し合いたいと思っています。
私の子であると同時に彼の子でもあるわけです。

これが、USAだと、サリー紫 さんがおっしゃるように、いとも簡単に済ませてしまっているんですよね?
そして、個人の意思が尊重される。。。。

丸はどのくらい深く考え、どのくらいの想いでつけたものか?を問われないがために、逆に、本当にこれでいいの??という疑問が湧きあがってきつつある?のかもしれません。
あまり知らされていない事実も見え始めているという感じなのではないでしょうか??
臓器提供者が多いのには、日本が極端に少ないのと対極にあるシステムのように、感じています。
だから、言葉では簡単になってしまいますが、きちっとしたシステムが欲しいと思っているのです。

また、移植を待つ人数に追いつくような提供者数を確保するという考えには私はなりません。
ドナーの数が足りない、それでいいと思うのです。

うまくいえませんが、こういう機会を得たり、わが身に置き換えたり(すごく勇気がいる事だと思いますが。)して、しっかりと見つめた上で、それぞれがどう意思決定をするかをするチャンスをつくれないものか?と感じています。
例えば、免許更新の時に、きちんと自分の死生観と向き合えるような講習を義務付けるとか…、何か、手立ては無いのでしょうか???

子の移植については両親の考えになる場合と、意思表示が出来る年齢であれば、本人の意思が尊重されるべき、になってしまいますが、少なくとも、大人の個人の意思は尊重されるべきなのではないか?と思うのです。
 





   >>> たんぽぽさんへ トマトの気持ち   -- 2006/05/31..
 
たんぽぽさん、そして皆さん。こんにちは。

少々私用が建てこんでいて、見るタイミングが遅くなってしまい、ごめんなさい。

たんぽぽさん、いつも聡明できちんとしたスタンスの元、優しく暖かい言葉の数々、ありがとうございます。わたしもたんぽぽさんが大好きです。そして、長文のメール本当に、ありがとうございます。

私も命にかかわることについては、慎重で有るべきだと思っています。正直に言いますと、この前のスレットを立てるまで、いろいろと情報は手にしていたのですが、では自分はどうなのか?というところ、漠然とは思うところはありつつも、ここまで明確に自分はこう思っていると確認したくなかった、という気持ちがありました。
たくさんの方の真剣な問いに私はどうだろうと、勇気を持ってきちんと向き合ってレスをつけたつもりでいます。
その中で輪郭だけかもしれませんが、自分の気持ちに気付かせていただけたと思っています。

私は、日本でも基本的には子供の臓器移植を認めるべきだと思っています。もう少し正確に言葉を選ぶとすれば、日本でも子供の臓器移植を行うことを、双方の同意があるとすれば、出来るのに認めないのは残念だと思っている。出来る技術力も設備もあるのにすることが法律によって出来ないのは変だと思う。というところでしょうか。。。

そのしわ寄せを海外に求めざるを得ない現状。
では、海外ならいいのか?
外国でなら、お金さえあれば何をしてもいいと見られかねない状況に、何ともいえない居たたまれないような、いやな感覚を覚えるのです。

似たような感覚を覚えるものが、私には結構あるのです。
よくない表現ですが、「くさいものには蓋」「見ざる、言わざる、聞かざる」的な感覚がどうしてもついて回ります。

その現実に直面しない限り、素通りしていい、そのほうが楽、そのほうが生きやすい…んですよね。
これは、臓器移植の話以外でも、当てはまるのではないでしょうか?
私も全てのことに真正面からぶつかっていけるほど、強くないのは確かなんです。
でも、見なきゃいけない見つめなきゃいけないと無理やり首をそっちに向けているような状況です。(なので、最初に書いたとおり、自分はこう思っていると確認したくなかった。という感覚に自分はなるのだと思います。)

今、現状ではこの壁(法)があります。だから、莫大な募金を募るという行為は、好き好んでしたくてするものではない。
国によって我が子の生きれるかもしれない可能性を摘み取られているからこそ、そうせざるを得ない状況が起こっているのではないか?と思うのです。
もちろん、その影には、その活動が出来るところまで知っていてもやれなかったorやらなかった、知ることも出来なかったorしたくなかった等等、色々な状況や判断があることも承知しています。

その立場になったとき、私は少なくともある程度のことを知っていて、自分で、もしくは自分の家族とともに、どうするのかを決めれるようになりたいと今は思っています。
もし、自分自身が移植を必要とする時が来るとしたら、子供が居ないときでしたら、それを選ばない自分が居ます。
でも、明日必要になったとしたら、選ぶし、16年後なら、やはり選ばないでしょう。。。。私は、少なくとも充分に自分らしく生きたと、いつ命が尽きたとしても思えるのですが、今となっては、残していく子にとって、まだ生きていたいとおもう自分も居るということです。

という大前提に立っていますので、自分も子もドナー登録すべきだと思っています。

次に続きます。
 





   >>> 障害についての思い たんぽぽ   -- 2006/05/31..
 
 このスレッドで、盲目、障害という言葉を使っていますが、差別的な意味で使っているのではないことをご了承ください。

 私は、障害は肉体の個性だと思います。私が最も尊敬する方は脳性麻痺の方で、さまざまな苦しみを乗り越えた方の輝きがいかに素晴らしいものか、よく理解しています。

 しかし、現実的な意味で、やはり障害をもつことは辛いです。私は人格が未熟なので、できれば辛い思いはしたくないと思っています。
 そういう意味で書いたことですので、ご了承ください。